三国さんといえば皆さんは何をイメージしますか?僕は、まず思い浮かぶのが映画「異母兄弟」(1957)で老人役になりきるため、34才という若さだった三国連太郎さんは、なんと歯を10本抜いたという仰天エピソードですね。
役者一筋だったんですね。すごいわー。演技に対して相当こだわりを持っていたんですねー。
あと、ベッドシーンで女優に対して本当に手を出そうとしたという、ウソなのか本当なのかわからないような伝説も残していますよね(笑)
僕がこの話を初めて聞いたのは、たしか「さんまのまんま」で三國さんがゲスト出演された時に、さんまさんが笑いながら言ってたのを見た時だったと記憶してますが、かなり衝撃的でしたね(笑)情熱的というか、普段温厚そうな三國さんだけに、なぜか憎めない(笑)
ちなみに、そんなシーンがあったと噂されている作品と女優さんは、あくまでも噂ですし本番で使われてるかどうかは知りませんが、映画「越後つついし親不知」(1964)での佐久間良子とのベッドシーン、映画「復讐するは我にあり」(1979)での倍賞美津子とのベッドシーン、映画「飢餓海峡」(1965)での左幸子とのベッドシーン、映画「さらばラバウル」(1954)での岡田茉莉子とのベッドシーンなどですかね。
ちなみに、俳優として、映画会社にも素直にというか奔放に振舞っていたようで、最初は松竹に研究生として育ててもらったのですが、出たい作品や監督がいると、当たり前のように東宝の映画に出演すると言い出したりして映画会社間で当時問題になったりもしたようです。
こういうところも、すごく人間味があって好きなのですね~♪ Wikipediaには次のような三國さんの言葉があります。
「会社は僕を商品だと思っているようですけれど、僕は息をしている人間なのですから、好きなものは好きで、いやなものは嫌だと言いたい」
いや~これはスゴイですね。まったく正論で、今も昔も国内でも海外でも映画会社と俳優との間をスバリ言い表している言葉だと思います。
プライベートでも逸話が多くて枚挙に暇がないんですな。例えば、戦争に行くのが嫌で赤紙からの逃走劇を繰り広げたこと。これも感銘を受けました。というのも、大学生の頃に、ふと、昔の人はナゼ戦争にいったんだろう?たとえ非国民といわれても誰か1人くらいは赤紙が来ても「イヤだ!人殺しなんてしたくない!」って逃げた人がいてもおかしくないんじゃないか?と思っていたものですから、<<おー!!やっぱりいた!いなきゃおかしいよな!>>って(笑)当時三國さんは大阪で働いていたらしいですが、佐賀県まで逃げて結局つかまったらしいです。本当に人間味のある方です。
ちなみに、結婚は4回しています。あんなに温厚そうなので一見オクテに見えるんだけど、意外でしょ?
さらにビックリしたのは1人目の奥さんとはWikipediaにはハッキリと偽装結婚だったと書いてあることですね(笑)つまり、戦争で中国に行かされていた三国さんは妻帯者は早く帰国できると聞いて1946年23才の年に知り合った女性と結婚したとういことです。同じ佐藤という苗字の女性だったというから日本人なんですね。中国で日本人女性と出会ったということなんですかね?
その後2年続いた結婚は、宮崎県にある妻の実家で寝泊りさせてもらいながらバスの整備工などを経験したようです。その後、妻が女の子を妊娠しますが、1948年に離婚。
単身、鳥取へ出向いたところ戦争中に知り合った人と再開し、農業共同組合に入ったそうです。さらに資産家のお嬢さんと1951年28才の年に結婚(KINENOTEによると林政子さんという方らしいです)。ただ林家から猛反対され結局、翌1952年には離婚したそうです。
そして1951年に俳優デビューしていた三國連太郎は、1953年に神楽坂で知り合った芸者の石原とし子と3度目の結婚。この女性との間に生まれた息子が後の俳優 佐藤浩市です。あと何をされているかも名前もわかりませんが、娘も1人生まれているそうです。
この結婚は20年以上続いたものでしたが、実はその間に女優の太地喜和子と不倫していることが公になりスキャンダルとなりました。なんと三国連太郎は41才だった時に、相手の太地喜和子は19才という若さだったというから驚きです。ということは1964年頃ですね。
しかも、実際に太地喜和子の実家で同棲までして、太地の両親には「子供(佐藤浩市:当時4才くらいじゃない?)が、あと10年もすれば自立できるようになるから、結婚させてほしい」と申し出たらしいですよ。息子が14才になってもまだ自立は厳しいのでは・・・とか思うんですが(笑)あれ?
しかも結局は、三國さんが同棲3ヶ月で「疲れた」という置手紙だけ残して出ていってしまったんだそうです。まさに芸術家ですね(笑)
そして、KINENOTEによると1976年53才の年に4度目、最後の結婚をします。ただ、別のサイトでは1981年に結婚したと書いてあったりと情報があいまいです。さらに相手の女性の情報はほとんど明かされていないようですね。一般の方なのかな?一部のメディアでは友人宅でたまたま知り合ったらしいとか噂されてるみたい。
ただ三國さんが亡くなった時には、この女性の言葉などが報道されていたようですから離婚はなく、最後まで添い遂げたようです。4度目の結婚生活は3度目よりもさらに長い、30年以上も続いたんですね。
ちなみに時期は不明ですが、他にも女優の石田えりとも交際の噂があったようです。おそらく三國さんが出演した映画「釣りバカ日誌」シリーズに複数回出演していた石田さんが突然降板になって浅田美代子に代わったことを勘ぐってのことなのかな~?
いやはや、さすが2枚目俳優。本当に役者らしいというか、破天荒な方で、生き方を調べていても飽きることがないですね。
キャリアとしては、戦後仕事を探してプラプラとしていた頃、銀座で松竹のスカウトマンに誘われ「飯が食えるなら」とついていったそうです(笑)
そして、映画「二十四の瞳」などで有名な木下惠介 監督と面談。木下監督は三国連太郎を大変気に入ったそうで、いきなり映画「善魔」(1951)で主役としてデビューさせます。この作品で三國は、ブルーリボン賞の新人賞を受賞。
また、NHKで放送していた「こころの遺伝子」という西田敏行が司会&インタビュアーをしていた番組に三國連太郎さんがゲスト出演した際には、「善魔」で初めて演技というものをしたために何度もNGを繰り返した三國に木下監督は決して怒らず、「好きなようにやればいいんだよ」と声掛けしたそうです。この言葉は、以降、三國連太郎の人生そのものを言い表していると言っていいくらいの影響力を持っていたそうです。
また、先ほどもちょびっと書いたように、松竹から東宝に移った恩知らずとして松竹の撮影所の入り口(だったかな?たしか)には、「犬 猫 三國は入るべからず」みたいな張り紙が貼られたこともあったそうです。
その後、木下恵介監督の映画「海の花火」では笠智衆と共演、さらに東宝映画「戦国無頼」では、三船敏郎と共演。監督は稲垣浩で、脚本には、あの黒澤明が参加していました。
ちなみに、この稲垣浩監督の映画に「無法松の一生」という有名な映画があるのですが、この映画なんと3度もリメイクされた人気作なんですね。
最初は、1943年に阪東妻三郎が主役で公開されました。え?誰かわからないって?ドラマ「古畑任三郎」シリーズで有名な田村正和さんの実のお父さんですよ。2度目の公開は1958年で主演は三船敏郎。
そして、3度目の公開は1963年で、主演は三國連太郎さんだったんですね!僕は、まだ三船敏郎さんのバージョンしか観たことがないのですが、三国連太郎さんバージョンも観てみたいなぁ~。
そして4度目の公開は1965年で主演は勝新太郎でした。余談ですが、この映画を知ったきっかけは、山田洋次監督の映画「虹をつかむ男」で田中邦衛さん演じるツネさんが、良いと思った映画作品を聞かれ、「板妻(坂東妻三郎の愛称)、無法松の一生」と答えていて興味を持ったことでした。バンツマの無法松はそんなに良いのかぁ~。観たい。ちなみに「無法松の一生」は、山田洋次監督の映画「なつかしい風来坊」や「男はつらいよ」にも通じるものがあると感じた映画ですよ。
1955年には「警察日記」という名画に出演。この映画も前述の「虹をつかむ男」で紹介されてました。主演は森繁久弥。他にも宍戸錠などが出演しています。
また「太平洋の鷲」という映画では当時の時代劇スター大河内伝次郎や三船敏郎、志村喬らと共演していますね。
他にも八千草薫さんの夫でもある谷口千吉監督の作品「赤線基地」に主演。1954年の映画「さらばラバウル」にも出演しているのですが、この作品では、あのウルトラマンやゴジラで有名な円谷英二が特撮を担当していました。
三國さんは、まだまだ、たくさんの映画に出演しているのですが、全部挙げていくと多すぎるので、かいつまんでいくと、森鴎外原作の市川崑監督の映画「破戒」(1962)では、市川雷蔵、長門裕之(南田洋子の夫で、津川雅彦の兄)、船越英二(船越英一郎の父)らと共演。
あと、三國さんの作品でコレが一番カッコいいんじゃないかな~と思える程だった「切腹」(1962)という映画。この作品では、仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、松村達雄らと共演しています。
「さんまのまんま」というトーク番組に三國と共に出演した西田敏行は、「飢餓海峡」で三國が左幸子さんとベッドシーンを撮影中に本当に下着を脱がそうとしたらしいですと告白。三國もとなりで「あれは監督が変態だったんですよ。なかなかカットがかからないからエキサイトしちゃって」と笑っていました(笑)
市川崑監督の映画「犬神家の一族」(1976)にも出演。ちなみに主演の金田一耕助役は石坂浩二が務めました。
今村昌平 監督の映画「復讐するは我にあり」(1979)では、シリアルキラーの役を緒形拳が演じ、その父親役を三國連太郎さんが演じました。ミヤコ蝶々、フランキー堺、菅井きん、倍賞美津子(「男はつらいよ」さくら役で有名な倍賞千恵子の妹)なども出演しています。
1988年には、伊丹十三監督の映画「マルサの女2」に出演。この時の三國さんはとても怖い役を演じてましたねー。迫力がありました。宮本信子、津川雅彦、丹波哲郎、笠智衆、きたろうなどが出演しています。
最初は昔の義理で渋々出演しているなんてことを言ってたようですが、結局スペシャルも合わせて22作もの長寿人気シリーズとなった本作に最後まで出演し、特にスタッフの情熱については大変褒めていたようです。
浜ちゃん役の西田敏行と、スーさん役の三國連太郎の名コンビは大人気で、渥美清さんが亡くなってしまった頃と前後して、「男はつらいよ」シリーズに代わり松竹の看板作品として多くの人を楽しませてくれました。
脚本には山田洋次も参加しており、監督は「男はつらいよ」や「学校」で助監督を務めてきた朝原 雄三が担当しています。
また映画「利休」(1989)では、華道家でもある勅使河原宏という方が監督を務め、三國連太郎が千利休を演じています。三田佳子、織田信長役の松本幸四郎、石田三成役の坂東八十助、豊臣秀吉役の山崎努などが共演。
なんと美術館から本物の国宝級の屏風や茶器を借りて撮影したというからスゴイですね。
最後に、なんと三國連太郎さんは自身でも映画を製作しており、「親鸞 白い道」(1987)では企画・原作・製作・脚本・監督を務めています。
主演は、森山潤久という舞台を中心に活躍している俳優さんで前述の「利休」などにも出演しています。ほかには、蟹江敬三、丹波哲郎、若山富三郎、フランキー堺、泉谷しげる、ガッツ石松などが出演。三國連太郎も宝来という役で出演しているようです。
この作品は、なんとカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞しています。
さて、ここまで三国連太郎さんの人生をキャリアと私生活の面から、かいつまんで見てきました。本当に濃い人生ですよね(笑)
役者としても個性があるし、人間としても非常に興味をそそられますね。知れば知るほど興味をそそられるような、魅力ある人間として元気をもらえます☆ピンときた作品があったら、ぜひ観てみてくださいヽ(´▽`)/
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