よく手塚治虫はマンガの神様なんて呼ばれ方をしますが、本当に数多くの傑作を残していて、藤子不二雄や石森章太郎はじめ多くの漫画家の憧れであると同時に、芸能人などの有名人にもファンが多いですよね。
落語家の立川談志なんかも、その1人で手塚先生は神様だとTVなどでよく語っていました。また夏目漱石の孫でマンガ評論家の夏目房之介は「手塚治虫はどこにいる」という有名な著書を発表しています。
手塚治虫は、まず、経歴からしてスゴイ!なんたって医学博士ですからね。大阪大学の医学部附属病院で1年インターンを経験した後、国家試験を受けて医師免許を取得しているそうです。
しかし小さい頃からマンガを書くのが好きだった手塚治虫は、結局、医者の道ではなく漫画家の道を歩むことを決意します。
まずは、中高時代に戦争を経験し、戦後「幽霊男」という長編マンガを毎日新聞に応募するんですが、なんと落選しています。
■ 1946年1月~3月 デビュー
しかしその後、近所に住んでいた毎日新聞社に務めていた女性の紹介で、子供向けの「毎日小学生新聞」(当時は「少国民新聞」という名前)に「マアチャンの日記帳」という4コマ漫画を連載します。
これが20才の時にデビューした初の作品となります。ちなみに本名は手塚治ですが、昆虫好きがこうじてペンネームは治虫となります。最初は「おさむ」ではなく「おさむし」と読ませていたそうです。
さらに実は「ドラえもん」で有名な藤子不二雄もデビュー作「天使の玉ちゃん」を「毎日小学生新聞」に連載しています。
これは、藤子不二雄の2人が手塚治虫のファンだったことから、毎日小学生新聞に宛てて手塚治虫のファンであることと、現在は手塚治虫の作品が連載されていないので、その代わりに僕らの漫画を載せて下さいという手紙を送ったことがきっかけだったようです。
この作品は、手塚治虫の長編デビュー作であると同時に、40万部以上も売れるという大ヒットを記録しました。
当然、この作品に影響を受けてマンガ家を志した漫画家もたくさんいて、藤子不二雄や石ノ森章太郎、ちばてつや、さいとう・たかをなどが挙げられます。
さらに落語家の立川談志や宮崎駿なども、大変感銘を受けたと語っています。
「新宝島」で人気が出た手塚治虫は次々と新作を発表。
1948年には「ロストワールド」、1949年「メトロポリス」、1951年「来るべき世界」という手塚治虫の初期の代表的なSF三部作を発表しています。
またこの時期、ゲーテの「ファウスト」をマンガにしています。(1950年)
さらに、この頃から大阪だけでなく東京へも原稿を持ち込みはじめ、最初は講談社に断られているんですね。
しかし1950年には東京の出版社で初の連載マンガをスタートします。タイトルは「タイガー博士の珍旅行」です。
特にリボンの騎士は、手塚治虫が少年時代に影響を受けた宝塚やディズニーの影響が強く現れていますね。
そして1954年には「火の鳥」の連載をスタート。
過去、未来、地球、宇宙を舞台に人間の業を描いている壮大なシリーズで、レオナルド・ダヴィンチでいうところの「モナリザ」のような存在かも?
こうして手塚治虫は一躍、全国区的に人気漫画となるワケですね☆
東京の出版社での連絡が多くなると、いよいよ上京。1953年に伝説のトキワ荘14号室に入居します。
このトキワ荘は東京都豊島区にあった木造アパートで、他にも石ノ森章太郎や赤塚不二夫など、たくさんの漫画家が住んでいたことで有名です。1954年に手塚治虫が引っ越した後、14号室には藤子不二雄が住んでいました。
現在は老朽化を理由に取り壊されてしまいました。
ちなみにWikipediaによると、1953年の段階で手塚治虫はすでに関西の長者番付で画家の部門の1位になっていたそうです。
また、手塚治虫はトキワ荘にいた若いマンガ家たちに映画をたくさん観るよう勧めていたそうです。自身も年に365本観ていたとか(笑)
映画といえば、「博士の異常な愛情」や「時計じかけのオレンジ」などで有名なスタンリー・キューブリック監督から、映画「2001年宇宙の旅」の美術担当者として参加してくれないかという連絡をもらったらしいです。
結局、忙しい&養うべきスタッフや家族が大勢いるため断ったということですが、もし実現していたらハリウッド映画に手塚治虫が進出していたかなしれませんね。
そして1955年頃から、いよいよ大人向けの雑誌にも作品を執筆し始めます。
まずは1956年に、SF短編シリーズ「ライオンブックス」、「漫画生物学」「漫画天文学」などを発表しています。
■ 1959~ 週刊誌ブーム到来
1959年には、それまで主流だった月刊誌にかわり週刊誌ブームに。講談社の「少年マガジン」や小学館の「少年サンデー」が創刊されます。
両方から声がかかった手塚治虫は、少年サンデーに「スリル博士」を連載、少年マガジンには自分が下書きだけした「快傑ハリマオ」を石森章太郎に描かせ連載したようです。
さらに、この1959年という31才の年には、幼馴染の女性と結婚しています。忙しすぎて2回しかデートできなかったらしく、式にも直前まで仕事をしていたため遅刻したらしいです(笑)
■ 1961年 手塚治虫プロダクション動画部の設立
1961年には、ついにディズニー狂いと自称していたほどアニメ好きだった手塚が、手塚治虫プロダクション動画部を設立します。
翌1962年には「株式会社 虫プロダクション」として法人化。さらに1966年には子会社の「虫プロ商事 株式会社」を設立。版権・出版・営業などの業務を行うための会社だったようです。
ちなみに1968年には漫画の制作を行う株式会社 手塚プロダクションを設立しています。
つまり、アニメ制作は虫プロで行い、マンガは手塚プロが行うという体制を整えたようです。
ただ、虫プロ商事、そして虫プロで労働紛争が起こり、次々に社員が辞めていき、1971年には結局、社長職を退任。映画の失敗や受注が減ったことなどにより、1973年には2社が連続して倒産します。労働環境が苛酷だったようです。手塚治虫も個人的に1億5000万円ほどの借金を背負うことになったそうです。
ただし、1977年には元々は虫プロの労働組合だったメンバーが大部分を出資して「虫プロダクション株式会社」という会社を設立します。
手塚治虫は、この会社にアニメ作品などの著作権を譲渡しつつ、共同でアニメ作品を制作していきます。
■ 1966年~ 雑誌創刊
1966年には、当時流行っていた雑誌「ガロ」に対抗する形でマンガ雑誌「COM」(コム)を創刊します。自身も「火の鳥」を連載。
翌1967年には、水木しげるが起こした妖怪ブームに対抗して「どろろ」などを発表。
さらに1968年には青年漫画「きりひと讃歌」「空気の底」などをスタートさせます。
■ 1973年~ 冬の時代を乗り越えて
さて、ついに経営難や人気のかげりなどを乗り越えて、1973年に連載をスタートした「ブラック・ジャック」が大人気になります。
1977年には、その他「三つ目がとおる」「ブッダ」「火の鳥」「ユニコ」「MW(ムウ)」を同時に連載していたそうです。
50才代となった1980年代には、「陽だまりの樹」や「アドルフに告ぐ」などを完成させています。
■ 1988年~ 晩年
1988年に胃がんとなり、翌1989年に死去。
遺作として未完の「グリンゴ」「ルードウィヒ・B」「ネオ・ファウスト」などがありました。これらは未完のまま出版・発売されています。
ちなみに「ネオ・ファウスト」は、またまたゲーテ「ファウスト」が原案の作品です。この小説がよほど好きだったんですね。
僕的のオススメは、なんと言っても「ブラック・ジャック」、「ファウスト」を原案とした作品、「火の鳥」、「アドルフに告ぐ」ですね。
特に、医師免許を持っていないながらも天才的な医師として多くの命を救う主人公を通して、人間の生死に関わる姿を描いた「ブラック・ジャック」。
そしてヒトラーにまつわる戦争物語を通して、正義の相対性を描いている「アドルフに告ぐ」。
この2つは、青年期に読んで、物事には見えていない違った側面もあるんだなと、ものすごく考えさせられました。
今でも行き詰った時には読み返して、生きるヒントやエールをたくさんもらってます。
手塚治虫の作品は今なお、単発ドラマとしての「ブラック・ジャック」実写版や、邦画「MW-ムウ-」、洋画「アトム」などとして映画化されていますし、舞台でも乃木坂46の生田絵梨花が出演した「虹のプレリュード」などが上演されています。
手塚治虫は、マンガ界、そしてアニメーションの世界でも偉大な功績を残した天才だったと言っていいでしょうね☆
なお嬉しいことに、今挙げた映画「MW -ムウ-」、「ATOM」、そして単発ドラマ「ブラック・ジャック」は、2014年11月現在Hulu(フールー)にて3本とも観れますよ♪
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僕も昔、密着番組かなにかで、フランス旅行に行く直前に成田空港でタクシーに乗りながらも原稿を書き続ける手塚治虫を、外で出版社の担当者が待っている姿を見て、大変驚いたのを記憶しています(笑)
最後に手塚治虫文庫全集 (全200冊)が発売されていますので紹介しておきます。
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